水宙

ほんとうの自分と探して、あなたと出会った

東京に疲れて南の島(実家)へと移り住んだ小夜子は30歳の誕生日目前に完全にブルーになっていた。仲が良いのかわからない年下男子・遥斗は今日も挙動不審で疲れてしまう。彼だけが知っているのだ、彼女が自称・人魚だということを。

人魚伝説があるこの島では、もうすぐ”女人禁制”のある儀式が始まろうとしていた。まさかの遥斗が参加を許されたと知って、小夜子のとった行動により、悠々とつづく島の秘密が顔を出す。

すべてのピーターパンとアリスへ。たぶんピュアラブファンタジー・童話シリーズ第1弾は『人魚姫』。


 「女の子独特の憂鬱なブルーだね」     昔、美術の佐藤先生が小夜子の油絵を見てそう言った。淡い青系の絵具を重ねて、何色、と聞かれても、わからない、と答えるしかないものを目指していた。小夜子はそれをたった五文字で、しかも、女の子独特、と限定して表現されたことに密かに傷ついていた。それは本人も理解していない。なんとなくその教師の言わんとしていることに頷ける部分があったのだ。
 
 思春期の自己愛強めの女の子が溺れてしまうブルー。ぬるい水の中はやさしくてまるで宙に浮いているみたい。もうずっとこうしていたい。もうここにはいたくない。背中合わせの感情にただただ息が苦しくて、何も選べずに水面を見上げる。ここはどこ、私は誰、何がしたいの。そうやって大人になることに怯えている女の子が小夜子の瞳の奥には映っていた。彼女は誰なんだろう。重ねて、重ねて、重ねて、重ねて、わからない。
 
 
 
    

水宙


 
 
 
 完全なるブルーを部屋中にぶちまける。カーテンで遮光された室内に溜め息がこもって澱む。高校生の時に描いた青いだけのキャンバス、逆さまに壁に掛けなおしてかれこれ小一時間はこうしている。小夜子が、涙を拡大して成分を抽出してみた、と説明した時、あの美術教師は宝物を見つけたように目を輝かせていた。気がする。思えばこれが人生のピークだったのかもしれない。
 
 無音になって画面を見れば暗転したスマートフォン。ずっと耳を塞いでくれたヒーリングミュージックが消えると急に自我を取り戻して全身が痛くなる。ひと昔前はシューゲイザーやポストロックを聴いていたけれど歳を重ねるごとに解毒ができなくなってきた。ああ、インストゥルメンタルの海が恋しい。
 
 「あんたいい加減にうじうじしてないで浜辺でも歩いてきなさいよ」
 「うるっさい、ほっといてよ」
 
 ドア越しに、昼間っからいいご身分ねえ、とうっすら聞こえて鳴らないイヤフォンをもう一度耳穴に挿す。歩いて五分でホンモノの波の音が聞こえるのは知っている。南国っぽい気怠く飾らない路地裏、さんさんと照りつける太陽とさらさら開放的な空気。でも今はホンモノよりも実体のない夢の中で眠りたい。シーツに頬をくっつけて長い黒髪を顔に巻きつけて、小夜子は自分の存在を消した。
 
 
   揺れて、揺れて
   人魚は
   喧噪に汚れた街で
   透き通った水の
   温もりを
   少しのひんやりとした
   涼しさを
   想う
 
 
 二十六歳の時、眠れない夜につらつら綴った詩は、
 
 
   陽がゆらゆらと
   揺れて、揺れて
   溺れない
   泡
   手を伸ばせば
   掴めそうな
        水宙
 

 本人も驚くほど滑らかに降りてきてから
 

   漂う此処は
        
 

 着地しないままインスピレーションを待ちぼうけしている。昨日、机の中を整頓していた時に見つけた紙切れ。続きは脳みそを雑巾並みに振り絞っても文字の一画目すら出てこない。
 
顔が痒い。身体が重い。毛布がしつこく纏わりついているみたいで気持ち悪い。調子の悪いエアコンをボコボコにしよう。汗ばんだTシャツをビリビリに破いてしまいたくなって小夜子は肺いっぱいに息継ぎをした。ベッド脇の本棚に手を伸ばす。大好きな水中写真家の作品を眺めてターコイズブルーの海を泳ぐ妄想に耽る。見渡すと『人魚』コレクションが壁一面を所狭しと占拠している。アンティーク風リトグラフの人魚はオフェーリアの真似事をしている。貝殻を積み上げたオブジェは人魚の棲家、独り暮らしの1LD。そして自作のアクアリウム     金魚鉢の中に象ったのは人魚の故郷。鉢の縁に垂れる青インク、鉄板の三日月を持ち上げているのはアイオライトの原石。ガラス細工の熱帯魚が鮮やかな尾ひれをなびかせ、コーラルと多肉植物はまるで海底の珊瑚礁、土には透明とアクアマリンのガラス粒が散らばっている。その隅にダイヤの形をした鏡が刺さっていて、覗けば自分がそこにいる。三十路手前の自分が。
 
 「ねえ、さっさと出てきなさいよ」
 
 幼心に大事にしていた宝箱がひっくり返ってしまった自室。ここにはいかなる三次元の生命体も侵入させない。この部屋までが自分の拡張現実なんだから。いわばここは皮膚の中なわけで。在る物は自分の大事な内臓なわけで。臓物の中へとお招きするなんてそんな、めっそうもない。その為に家賃プラスアルファを払っているのだから。
 
 閑話休題。もうすぐ節目の誕生日という時期にナーバスにならない女なんているのだろうか。(いるとしても今は黙っていてくれ。)小夜子は処刑台の上でカウントダウンされている心地。時計の針は後戻りできない。十代から二十代になる時も、もっと辿ると幼少から十代になる時も、この取り返しがつかない感覚に怯えていた。過ぎてしまえばなんてことないのは知っている。首チョンパになったら首だけで生きるしかない。わかっているのに、アップダウンの激しい気分は言うことを聞かない。だからせめて可愛い自分へプレゼントをとネットでサーフィンをしてしまったのが間違いだった。鬱々たるは遡ること一時間前。バスタブが欲しかった。バスタブで寝たら人魚っぽい。でもそれを購入することも設置されてる場所に越すことも許されない。お金さまが許さない。これが現実。どこにも行けないもうすぐ三十路の絶望よ。
 そもそも小夜子はずっと人魚フリークだった自覚はない。移住した現・実家の部屋をレイアウトしている時に偶然にも大発見したのだ。持ち物を点と点で結んでいくと淡い水色が多かった。水っぽいものが多かった。海の匂いがした。その線が集中している先は     人魚。人魚がすべての主人公。シルエットがぴちぴち跳ねて一気に沸き起こる世界観。小夜子はこの歳で自分を理解し始めたのだ。私のテーマは人魚だったのだ、と。
 
 自分は特別な才能があると信じていた十代。努力しないで何かを成し遂げたかった二十代。何かとは、アーティスティックな何か。情熱の火が点いては消えてを繰り返しアルバイト先を転々としながら東京の荒野を彷徨った。うまくいかないとすぐにトラウマの根が下りて劣等感がしこりとなってもう生きるだけでいっぱいいっぱい。気がつくと方向性を見失っていた。誰かに相談したかったけれど、生存のためにあらゆるものをふるいにかけていたのが災いし、いわゆる“結婚式に呼べるほど親しい友達”なんていなくなっていた。そんな頃合いに、母が何を思ったのか弟を連れて南の島のかつての実家へと出戻りする。それでも首を横に振って都会にしがみついていたのに。小夜子は二十九歳のクリスマスに涙が止まらなくなって、そのまま津波のごとくこの古城島へと押し寄せてきたのだった。
 
 最初は良かった。遠い昔の時分に一度だけ嗅いだ潮風の懐かしさに、やっと安住の地に辿り着けたと胸を撫で下ろした。そして束の間に思い知るのだった。島の女は誰も彼もが若いうちに結婚して子供を数人こさえている。逃げ込んだと思ったら完全アウェイの戦場に小夜子は降り立ったのだった。
 
 「ねえ、」
 「ほんとにもうなんなの!? さっきからうるさいって」
 「あの子が来てるのよ」
 「誰」
 「あの私の苦手な男の子」
 「あ     
 
 腑抜けた声でやっと現状を把握。カーテンの隙間から外をこっそりと視察。遥斗が垣根に沿ってうろうろと歩いている。たまに門越しに玄関を覗いてから小夜子の部屋を     ッと危ない。目が合いそうになって小夜子はしゃがんだ。
 
 「今対処するからほっといてあげて」
 「よろしくね、不気味で外出られないのよ」
 
 慌てて着替えて髪をセットアップして、涙あとをフェイスパウダーでもみ消してついでにリップも忘れずに(一応相手は年下の男の子なので)小夜子は部屋を飛び出した。ドア前で息を詰めてそっと引き手を動かすと、あああ、ちょうど門柱に顔半分片目でこっちを覗いている最中だった。申し訳ないが、ゾッとした。
 
 「あれえ、遥斗じゃん。どうしたの」
 「えっ」
 「⋮⋮」
 「⋮⋮」
 「⋮⋮散歩してたの
 「ハハッ笑えるッ」
 
 何が笑えるのかと聞く間もなく通りすがりを装い去っていく遥斗。毎度思うが、
 
 「本当に、心の底から、意味不明⋮⋮あ、川柳できた」
 
 彼、遥斗とは、小夜子が完全アウェイの状況に放心している半年前に出会った。ここらに珍しく色白眼鏡で小柄、黒い短髪は重力に逆らって上を向く、賢そうにもアホそうにも見える実直な雰囲気の青年だった。口元に傷がある以外はつるんとした赤ちゃん肌、綺麗目な顔立ち。魚で例えるならクラカオスズメダイみたい。でも挙動不審の方が余り余っているからなのか、友好関係が移住したばかりの小夜子レベルだったのだ(本当に申し訳ないが、心から同情した)。そしてたまたま彼の陰口を聞いてしまう     「おどおどしてなんにもできない奴」     以来、小夜子は遥斗を応援しなければならないという謎の使命感に駆られて、今に至る。
 
 たまに自室の窓辺から覗く舗道を“まるで見つけてほしそうに”歩いているからこちらから声をかけても驚いてどこかへと消えてしまう。何がしたいのだろう。普通の人間なら小夜子の母親のような反応になる。けれど、だて食う虫も好き好き。小夜子は遥斗のそういうところが可愛いなあと心が安らぐ変態だった。自分よりも現世が生きづらそうな遥斗、いいね。世界七不思議の八つ目である。
 
 「まあいっか、そろそろバイトだし」
 
さて、そろそろ序章も終わり。実は小夜子は遥斗にだけ打ち明けているとっておきの秘密がある。それは     自分は人魚かもしれない     という、絶対に内緒のトップ・オブ・トップ・シークレット、だったりする。