最終章 千年と四半世紀のエラン・ヴィタール


 
 
 
 
 何者でもないあなたは誰かにとってかけがえのないあなた、かもしれない
                                     砂辺小夜子
 
 
 
 「今から海で遊ぶのはやめといた方がいいんじゃないですか
 
 いきなりぬっと現れて。叫びたいのに息切れが酷くてカスカスのスプレー缶みたいな声しか漏れてこない。
 
 「浜辺に着いてから空気は入れないと危ないですよ」
 
 遥斗の生乾きの髪が風に煽られてスタイリッシュになっている。ひと泳ぎしてきたのか、スイミングスクール帰りの少年さながらのあの独特のクタッとした色気が、筋肉とTシャツからにじんでいた。こめかみに垂れた水滴が風で耳に入ったのか、首を傾げて肩を回して拭っている。斜めの顔のまま視線だけをこちらに向けた。
 
 「⋮⋮もしかして酔ってるんですか
 「どうしてここにいるの!? 儀式は!?
 「僕の役目は終わりました」
 「なんか騒ぎになってるよ
 「えっ」
 
 ふたりで崖の淵に立ち海岸沿いに目を凝らした。
 
 「なんでもなさそうですよ。ほら始まる」
 
 真っ暗闇の海へ、古めかしい小舟と群衆が列をなして進んでいた。神話のようだ。
 
 「もしかして覗きに来たんですか」
 「ちげーよ」
 「酔うと言葉遣いが」
 「うるせーなあ               !!!
 
 いきなり夜空に向かって叫ぶ小夜子に遥斗は驚いて崖から落ちそうになった。
 
 「どいつもこいつもバカにしやがって!!
 「びっくりした⋮⋮何かあったんですか」
 「なんであんたは意味不明なの!!
 「僕は意味不明ですか」
 「窓んとこに置いてある貝殻のヤツ!! 私が持ってるのに似てる!!
 「⋮⋮似てますね」
 「ストーカーじゃん!!
 「ち、ち、違いますよッ」
 
 遥斗の色白の顔が貝殻の内側みたいなまだらなピンクに染まっていく。
 
 「小夜子さんは少し頭が変なんじゃないですか
 「ハァ?!
 「どうしてそうなるんですか バカなんですか
 「やっぱりバカにしやがって!!
 
 とうとう物語はクライマックス。なのに、酔っぱらいとコミュ障の頭悪そうなバトルが始まってしまった。
 
 「私はさあ 初めてだったんだよ アレ見てさあ!!
 「何が初め」
 「初めて好かれてるかもと思って嫌じゃなかったんだから!! 三十路手前で初めてだったんだからな 彼氏いない歴年齢なめんな もうすぐ妖精だぞ
 
      初めて私の体を透かして私自身を見てくれた人が現れたと思った。
 
 「この年齢で新しくなるのって大変なんだからな しかも女は賞味期限短いし」
 「それを言うなら消費期げ」
 「消費!? 女をなんだと思ってんの!?
 「いやいや小夜子さんが言い出」
 「私嬉しかったんだから やっと恋できる普通の人間かなと思ったのに
 「人魚じゃないんですか」
 「この際どっちでもいいんだよ!!
 
 小夜子のただならぬ鬼気に遥斗はぽかんと口を開ける。
 
 「だってもうチャンスないもん サンジュウなんて価値めっちゃ下がるし 私もオトナになりたかった
 
 遥斗は聞き役に回るべきだと悟った。深く頷きながら共感の姿勢を示す。
 
 「三十なんて立派な大人ですよ」
 「ババアってか!! アァン!?
 「えええ」
 
 けれどいい聞き役ではなかった。
 
 風が強くなってきた。遠くの灯籠がひとつ消えた。満月に照らされた島に何隻もの舟が小魚のように群れている。目の前の小夜子の顔は怒っているのか泣いているのかわからない。
 
 「お子様はこれだから嫌だよ
 「そんなに変わらないじゃないですか」
 「ぜんっぜん違うよ 遥斗幼いもん

 苦虫を噛み潰した顔で言いたい言葉を飲み込む遥斗。
 
 「私やっぱり人魚でも人間でもないよ」
 「なら何なんですか」
 「欠陥人間なんだと思う
 「そんな悲しいこと言わないでくださいよ」
 
 キュッと遥斗の瞳が悲しく揺れた。月明かりが水面のよう反射して、その澄んだ輝きに小夜子は心の水面を想う。
 
 息継ぎを忘れた魚みたいに溺れてしまう。
 
 「私は別人になりたかった
 
 混沌とした濁流に飲み込まれ、螺旋を描き、沈んでゆく。
 
 「人魚になりたかった
 
 涙声が風に煽られ、建てつけの悪い窓がガタガタと轟く。近くでは見えない何かが地面に転がる不吉な音がした。
 
      ああ、めんどくさい。もう何も考えたくない。
 
 人生は選択テスト。制限時間が迫ってくる。休む間もなく次の問題がやってくるのに間違えても消しゴムで消して後戻りができない。少しでも間違えると問題は更に難しくなる。もう二度と手に入らない喜びが選択肢から除外されて、
 
      私は何者にもなれなかった。
 
 残ったのは選びたくないものばかり。
 
 「ううん、私は人魚だから⋮⋮うん」
 
 けれど、どんなに選びたくなくても選ばなければならないんだ。諦めて、納得して、高望みなんてしてはいけない。
 
      こんな自分になんてなりたくなかった。
 
 (なら何になりたかった
 
      どうしてやり直しがきかないの。
 
 (何をやり直したいの
 
 
 それでも生きていかなければならないなんて。
 窒息しそう。
 
 
 『どんな自分になりたいですか     解答用紙のスペースに書いた答えは重なりすぎてぐちゃぐちゃで、読み解くことなんてもうできない。
 
 重ねて、重ねて、重ねて、重ねて、わからない。
 
 なら、
 
 
 (考えるな。)
 
 
 「今から証明してやるよ!! こっから飛び降りて泳いであっち行って帰ってきてみせるから!!
 
 ふたりの足もとから海面まで十五メートルはある。湾曲した岸壁、南東に見える砂浜と違い、直下すれば下手したらゴツゴツと盛り上がり散らばった岩の塊に激突する。その向こうは荒波の深瀬だった。遥斗は痛いほどそれを知っていた。
 
 「⋮⋮え
 
 まさか、と見やる。小夜子はギラギラした野獣のオーラを放ち感覚に身をゆだねている。本気なんだとわかった。
 
 「小夜子さん」
 「ちょっと行ってくるわ
 「いやいやいやいや」
 「私を祀る儀式あっちでやってるしな
 「やってないです」
 「疑ってるの
 「いえ、はい いや、信じますけど、信じますけれど それだけはやめてください」
 「私脱いだらすごいんだよ
 「なんですかそれは」
 
 アルコール漬けの脳味噌が再生する、人間の着ぐるみを脱いだら人魚だったアニメーション。意思疎通の取れない彼女へ手を伸ばす遥斗。無慈悲にもペシッと打ち払われてしまう。
 
 「本当に勘弁してください。泳げないんですから」
 「泳げないのは人間になったからだよ
 
 腕を大きく振って抗議する小夜子。バナナフロートが宙に浮いて強風に反転する。危なっかしくて遥斗はビクリとした。
 
 「わかりましたから、とにかく落ち着いてください。酔っているんです」
 「酔ってるからやってると思ってるんだ?!
 「よくわかりませんけど、たとえあの島に行って儀式に参加したとしても小夜子さんは何も変わらないですよ」
 
 前のめりになる。たまらず遥斗は語気を強めた。
 
 「小夜子さんは小夜子さんのままです」
 「人魚時代の過去を思い出すかもしれないじゃん。魔女の顔とか
 「ないです
 「変身するかもしれないじゃん」
 「ないです もう 何言ってるんですか
 
 遥斗は一歩、小夜子に詰め寄る。
 
 「小夜子さんは小夜子さんのままでいいんです しっかりしてください
 

 そして、運命の神様は悪戯をした。
 この季節で一番の疾風が小夜子とゴム風船をかっさらったのだ。煽られた黄色い浮き輪と一緒に、小夜子は地面から舞い上がり、刹那の滞空時間のあと、落下した。
 
 
 
 時計の針、みるみると時は巻き戻される。二十五年前、ここから左に四十五度の美貝ヶ浜に父と娘の背中があった。三日月状の白い海辺、ざあざあと元気なさざ波の音、真夏の暑い日差しを浴びて麦わら帽子の女の子が砂遊びをしている。
 
 魚釣りについてきたけれど釣竿の前で待つのは家にいる時よりも暇過ぎたのだ。ぐずったら父親にこの砂浜に置いていかれてしまった。防波堤に隠れて父親はもう見えない。ポケットには波打ち際で見つけた丸い水色のガラス片がひとつ。病気の弟へのお土産だ。
 海には近づかないようにときつく命じられたので砂を蹴って歩いていた。すると壊れかけの砂山を見つけてしゃがみこむ。誰かの作りかけだろう。修復すれば立派な水路ができそうだ。表面を指で掘って貝殻で飾り付ける。落ちていた空き瓶に忍び足で海水を汲んで流すと貝殻が何枚もこぼれた。ため息が出た。すると小さな砂の城に影が差す。見上げると、父親が大きな青いバケツを持っていた。
 
 「釣れたよ」
 
 すぐ側の堤防で釣り針を垂らして早一時間、やっと引っ掛かったのは、数匹のタカサゴと一匹のクラカオスズメダイ。その一匹に女の子は見とれた。白地に薄いエメラルドグリーンの模様がかかっていてドットの鱗が煌めいている。頭にギザギザのタテガミが規則正しく美しい曲線を描いている。女の子は、ほうせきみたいにキレイ、と思った。プラスチックのバケツの中ぐるぐる回る小魚たち。じっと見つめるとその魚の口元に針の傷が痛々しく残っていた。女の子は眉を下げた。
 
 「いたくないの
 「さあね」
 「このこたちどうするの
 「唐揚げにしよう」
 「ええッ」
 「こんな獲物じゃママに笑われるだろうけどね。少しは腹の足しになるだろ」
 「えええッ」
 
 顔がくっつきそうなくらいバケツの海を覗き込む。ギュッと唇を噛む。心臓がヒヤヒヤする。小さな命が生きている。まだ生きている。それなのに。もっと生きたいと、魚は女の子へ懸命に訴えている。
 
 命が、輝いていた、キラキラと。
 
 
 
 「それで あんな息巻いといて収穫ゼロ 船乗りが聞いて呆れる」
 「違うよ、十匹は釣れてたんだ。なのに小夜子がぜーんぶ逃した」
 
 女の子は泣き腫らした目をこする。別にこっぴどく怒られたわけじゃない。バケツをぶちまけた時は流石に父親は情けなく残念な声を出したが、直後に大声で笑っていた。けれど女の子はふるえていた。それは小さな体にとって革命だったのだ。生命を虐殺から救うという重責の使命を果たし、その達成感でいっぱいになっていた。
 
 「小夜子には魚の声が聞こえるんだな」
 
 しゃっくりが止まらない女の子の頭を父親はやさしく撫でてくれた。大きく分厚い手のひらで。
 
 「やっぱり小夜子は人魚なんだな」
 
 ガハハ、とちょっと下品な笑い声。でもそれはぬくもりのある響きだった。
 
 「パパが遠い海で溺れた時は助けに来てくれよ」
 
 
      あの時、私はなんであんなに泣いたんだろう。
 
 
 小夜子は恐ろしい重力を感じながらぼうっとそんなことを思った。そして、すぐにぬくもりを感じたのだ。あの手のひらのように、あたたかで、包み込んでくれる力を。

 
  皮膚がちぎれそうな水飛沫
   痛みと滑らかに張り詰めた水の質感
    めまぐるしく乱暴な闇の閃光
     押し潰される肺、目眩
      抱き締められて
      水宙にふたり
     銀の光のリボンがたなびく冷たい海の底
    遠い水面は揺れている
 
  キラキラと、輝いている、命。
 
 遥斗が小夜子を見つめていた。大事そうに微笑んでる。そこには本当の彼がいた。心臓が全身を脈打つ。手にはやさしく力がこもる。強い腕に抱かれて、小夜子は思った。
 まるで魚みたい、と。
 
 
 二十五年前の水宙で     口に怪我をしたクラカオスズメダイは小さなヒレを必死に動かし泳いでいた。そして海上で目にしたあのめくるめく世界に焦がれ想いを馳せた。救われたのだ。見上げると歯を食いしばって涙を流す女の子。彼女に見とれて気がつくと、海面へ滑り落ちていた。
 
 魚は命の限りで祈り続けた。人間になりたい。もう一度、あの女の子に会いたい。
 
 やがてそのクラカオスズメダイは陸に打ち上がった。二本の足を持った男になって。老爺は波打ち際に倒れている彼を見つけて、ああ、言い伝えがまた起こったのだ、と理解した。この島の千年の歴史ではたまにあることなのだ     人間の女に恋をした魚が男になって陸に上がってくることは。
 
 人間になった魚は女の子を探した。島のどこにもいなかった。男は待ち続けた。靴職人の見習いをしながら。陸上は彼にとってとても生きづらかった。不慣れな環境は彼から根こそぎ自信を奪った。心がくたくたに疲れて、ひどく孤独で、男はたまに海が恋しかった。けれど。
 彼の苦労は無駄にはならなかったのだ。あの虹のかかった夕暮れ時に、すべてが報われた。
 
 クラカオスズメダイはやっと、大人になった女の子を見つけた。
 
 
 そんな邂逅を子孫たちは守り抜く。そんな男の口にできない一途な想いを。年に一度、その奇跡に感謝して魚神の祠へと参拝する。人間と魚、そしてその両者の子、この島の人魚たちをお護りくださってどうもありがとうございます、と。
 
 
 「泳げないくせに何してるんですか」
 
 立ち泳ぎの遥斗にしがみつく小夜子。荒波に揉まれてプハァ、と何度目かの深呼吸。小夜子は言い返せない。ぎゃんぎゃん泣いて、息継ぎに一生懸命で、海水を飲み込んでしまってオエッとなる。
 
 「鼻に入ったァ
 
 泣き声で甘えて抱きつく小夜子。だんだん照れて固くなってきた遥斗にお構いなしで、首に腕を回して耳の真横で大声でわめく。遥斗は離れられないと観念して抱き締め返した。やれやれ。
 
 そして、
 
 「小夜子さんは可愛らしい人魚ですよ」
 
 耳元でそう囁いて笑うのだ。シシシッと。水を得た魚のように。
 
 「お誕生日おめでとうございます。もう三十ですね」
 
 後頭部にチョップをかましてやる小夜子。どうしてこいつはこう 言葉選びが下手なんだ 
 「もう 信じらんない
 見つめ合うふたりの瞳はほころんで、キラキラと、本当にキラキラと揺れていた。吸い込まれそう、そう感じた。そして瞳からあふれてしまうのは疑いようのない、どうしようもないくらいの、恋だった。  
 
 実は小夜子には頭の片隅で誓ったことがある。水面を目指して上昇する最中、目の前に宝石みたいな鱗が見えた気がしたけれど、それはずっとずっと内緒のトップ・オブ・トップ・シークレット。誰にも言わない。誰かさんをあぶくにさせてはいけないから。
 
 そしてやっと気がつくのだ。世界には想われても気持ち悪いなんて感じない男がいた。すぐ側にいた。目が眩んで勘違いした脇役ではない、小夜子の心を理解して届けてくれた本当の贈り主。自分に価値を見出してくれる、かけがえのない存在。
 
 珊瑚礁色の季節が終わって、裸足でさまよい歩いた人魚はやっと、靴に、恋をした。   ikunoasira.com