第四章 世界で初めて生まれたブルーは


 
 
 
 重ねて、重ねて、重ねて、重ねて、わからない。
 女の子独特のブルーを壁に斜めがけにしてずっと睨みつけている。遮断した室内、言うことを聞かないエアコンを殴ったら今度は効きすぎて肌寒い。タオルケットに包まって小夜子は思考に溺れてゆく。
 
 敬遠していた二文字たち、恋愛、結婚、出産。恋愛って暇だからするんでしょ、楽でいいじゃん結婚なんて、何も考えてないから出産なんだろうな、そのどれもを逃げ道じゃんと見下していた。それなのに、三十路手前で必死にしがみつこうとした、後先なく。 
 どうしてみんな身長が伸びる自然さで恋愛して結婚して子を産むのだろう。違う、できるのだろう。雑草並みに溢れかえっている幸せ。いざ手を伸ばしてみてもまるでしっくりこない。向かない。人間として失敗作なのだろう。愛とかそういう類いがまるでわからない。傷だけが増えて膿んで腐ってゆく。
 
 「ブルー⋮⋮マタニティ、ブルー」
 
 暇だから、楽でいいじゃん、何も考えてない、まるまる思い上がりだった。愛やら恋やらはスキルが必要なのだ。勉強と同じなのだ。小夜子は思い知る。自分はそんなことすらさぼってしまっていた。予習も復習もしなかったから何がわからないのかさえわからない。
 
 「限りなく透明に近い⋮⋮」
 
 水際には寄る辺ない波がゼリー状に固まってゆく。尾ひれのついた人魚が横たわりながら必死でパンツを履こうとしている。彼女はヒールの高いパンプスまで用意していたのに。うたかたの紺碧がまとわりついてふやけてゆくよう。それを遠くから双眼鏡で覗いてみると     実は出来損ないの人間が必死で尾ひれをつけようとしていた。扁平足には靴すら入らない。裸足のまま立ち尽くす。ここはどこ、私は誰、何がしたいの。
 
 気がついたら絶対零度まで冷やされて凍りつく海の底。玉虫色の哀しみに合わせて天井にぶら下げたプラスチックのオーナメントが鈍い光を反射して水面みたいにキラキラと揺れている。イヤフォンを耳に挿すのすら怖かった。逆さまの油絵をぽかんと眺めていたあの時は一歩を踏み出す前のブルーだったのに。斜めがけの今は何にもなくなっちゃったの、ブルー。
 
 「あお⋮⋮青ざめる、アオ」
 
 中途半端を積み上げて、もうすぐ取り返しのつかない数に届いてしまう。さんじゅう。自分の世間的価値が下がる前に一度くらい、最後まで何かをやり遂げてみたかった。何かって何。すればいいじゃん。妻子を捨てて私をどこか幸せな場所に連れていってください     そうじゃない。そんなことがしたいんじゃない。
 
 綺麗だから貝殻オブジェは飾ったまま(物に罪はない)。今頃あの老け顔サーファーは飛行機の中。まあどうでもいいけど。それよりも、と小夜子は思う。それよりも、遥斗である。 
 なんであいつはイギリスの天気よろしく態度がコロコロ変わるのか。急に怒り出すのは本当にうざい。失言も多すぎる。私が二十六の頃は⋮⋮そうだ。私は美しい言葉を紡いでいたんだ。慌てて小夜子は本棚を漁る。パラパラとページを開く。
 
 
   「何も持たない旅人になる。世界で初めて生まれた色を探したいの」
   そう青い故郷を離れたのに、靴に恋をしてそればかりに時間を費やした
 
 
 この詩からインスピレーションを受けて人魚の物語を書いたのだ。
 
 
   人魚は靴に恋していた
   どの人魚もそうであるように
   素敵な靴は素敵な場所へ連れていってくれると信じていた
  
 人魚はお気に入りの靴を履いて珊瑚礁色の季節を過ごした。そして、『その季節が、終わったのだ』     終わった先が浮かばないで、クライマックスを迎える前にお蔵入りとなってしまう。彼女はまだどこにも辿り着けていない。
 
      嫌い。
 
 どんな御託を並べても小夜子は遥斗には敵わない。宙に浮いた人物像、この部屋のありとあらゆる“現実と折り合いをつけられないファンタジー”をかき集めても遥斗の意味不明さに匹敵するものはない。でも、正しい。まっすぐした生き方が、正しい。その眼差しが、正しい。
 
      遥斗なんて嫌い。
 
 小夜子には太刀打ちができない。己の存在が揺らぐほどに。
 
 
 『小夜子さん、最近綺麗になりましたよね』
 
 真綾がいつか、そう言った。
 
 『可愛くなった。メガネがコンタクトになったあたりから。なんか、キラキラしてます。恋でもしてるんですか
 『違うよ、みんなが褒めてくれるから』
 
 昔なら、まるで発情してるみたいと笑われている気がして恥ずかしかった。女の性をチラつかせることは自分らしさに反していると思っていた。だからきっと褒められたことと真逆の言動をしたりしただろう。でも、
 
 『そんなに褒めてくれると調子乗っちゃうよ』
 『どんどん乗っちゃってください
 
 今は前よりも素直に自分の性を受け入れられている気がする。少しずつ、少しずつ、強張った意識をなめして柔らかくしているのかもしれない。自分の魅力になって相手に満足してもらえるなら膨らんだ胸をそのままでいいと思えた。ワンピースはもう観賞用じゃなくなった。そして、耳もと。揺れるノンホールピアスはまるで釣竿の針。幸せを釣り上げるための。誰かの視線を釘付けにするための。自分自身を肯定するとファッションが楽しくなった。それを着て誰かと過ごしたくなった。
 
 誰か、を想像する時に、必ず遥斗が浮かんでしまうのは、何故。
 
 小夜子はむず痒い。めまぐるしく変化してゆく自分。ねえ、もしかして、と思う。人魚は脱皮するのだろうか。それは大変な作業なのだろうか。脱皮したら、小夜子は小夜子のままでいられるのだろうか。
 
 わからないことは、こわい。
 
 
 陽も白んできた昼下がり、サーフショップ『ゆらゆら』はあの話題で持ちきりだった。
 
 「長男だけが許されているんじゃないの」
 「玉城さんちは次男じゃないの」
 「渡具知さんも息子さんに不幸がなければってアレじゃない
 「縁もゆかりもないじゃないの」
 「縁はあるでしょうよきっと」
 「天願さんはなあにを考えてるのかしらねえ」
 
 ご近所のおばさんたちが店に自前のサーターアンダギーを持ってきた。そしてもうひとつ、世間話も。こちらがメインディッシュだろう。
 
 「あんなおどおどした奴に勤まるんだかなあ」
 
 遥斗は古城島古来から脈々と受け継がれる儀式の手伝いを許されたらしい。由緒正しい家系でもない、ずっと島にいたわけでもない。なのに今朝、遥斗が儀式用の灯籠を運んでいるのを見たという人がいる。取り仕切るのは天願長老。誰も彼の鶴の一声には逆らえない。
 
 「まあ女のあたしらには関係ないけどさ」
 
 小夜子は回していたペンを放り投げた。ふつふつとこみ上げてくる怒り。サーフボードを雑に棚に掛けて危うくスニーカーに直撃するところだった。どうして噂を盗み聞きしてそんなこと知らなくちゃならないんだ。昨日の夜には言えなかったのか。
 
      私たちの関係ってなんなんだろう。
 
 カラカラに乾いた涙腺が痙攣した。怒りのあとに来るこの怒濤の虚しさはいったい。
 
 
 日が暮れかけて店内がオレンジに染まり始めた頃、ウインドベルが来客を告げる。男女二人組が手を繋いで雑貨売り場へ。日焼けも少なくここの客層っぽくはない。真綾がすかさず接客をすると男の客が「外のディスプレイが素敵だったので」と言った。相方の女が写真立てを手に持った。砂浜に見立てた縁に小さな足形の判が押され、窪みの周りには貝殻の欠片があしらわれている。
 
 「これは時間の経過がテーマなんですよ。記念写真にぴったりですよね」
 「そうなんですか ちょうど私たち、新婚旅行中なんです。ね、これにしようよ」
 
 べベンッと三味線が鳴った。
 
 「そうなんですね、お客さん これはめでたいなあ。ねえ、店長先生
 「だな 一曲贈らせてくださいよ」
 
 そこで店長がアコースティックギターをバックヤードから持ってきた。ああ、またか、と思う間もなく開幕したアコギと三味線の即席ユニット。往年のフォークシンガーかよ。店長の腰巾着、矢沢がいる日はいつもこうなってしまう。あのおじさんたちはお披露目のタイミングを見逃さない。
 
 「今月のディスプレイは小夜子さんじゃないですか。すごいですね」
 
 拍手をしながら真綾が耳もとで囁いた。丁寧にラッピングをしながら小夜子は無言で頷いた。
 
 「小夜子さんが奥さんになったらお子さんを泣きやませるの上手そう」
 「⋮⋮いきなり話ぶっ飛び過ぎでしょ」
 「絶対上手ですよ。あんな感じのほんわかした夫婦になりますよ」
 
 それからはもうあのお調子者コンビが絶好調。隠し持っていた星座の名前のビールが箱でやってきて、酒盛りが始まってしまった。
  
 小夜子は俯瞰して周りを見渡した。誰もが余裕ある豊かな人生を謳歌していた。
 真綾は自分と正反対だ、小夜子は思う。女という性に、その生き方に、何も疑わないのはなんでだろう。それに比べやっと赤子の歩みで受け入れつつある自分。種族が違うのだろうか。奥さんにになる、と当然のように言い放つ。自分はそう言われただけで胃がムカムカしてしまうのに。全くそうなりたくないわけじゃない。でも、そうなれと言われると違和感で押し潰されそうになる。
 思い出した。昔からそうだった。男に想われているそぶりを感じると気持ちが悪くなってしまう。女のレッテルをあてがわれるのは虫酸が走る。女が、とか、男が、とか。分けなくていいじゃん別に。

 
 そこに本当の私はいない。

 
 別に女らしい物が嫌いなわけじゃない。女らしいとカテゴライズしていちいち型にはめようとする大きな何かにゾッとするのだ。そんな小夜子にはブラジャーひとつ着けるのにも一苦労だった。

 
 何もかもがしっくりこなかった。ちぐはぐだった。

 
 誰も目を凝らして小夜子を見ようとはしない。けれど社会ではテンプレートが用意されていて当然のように要求される。このうちのどれかになれ、と。何にもならないことは許されない。

 
 居場所がなかった。

 
 目の前の鈴生りの貝殻たち。一個一個違うのに、のれんにすると同じ記号に見えてしまう。指ですくうと三連符を奏でて揺れた。それでいいのだと世間は言う。それでいいのかと私は言う。
 
 あの嫌な店長でさえハンモックで歌う人生を甘んじて受け入れている。稼いだ分は生活費と別れた元妻の連れ去った子供の養育費で消えてゆくのだろう。それ以上でもそれ以下でもない。なのに今日も笑っている。 
 真綾はもう数年もしないうちに妊娠するのかもしれない。きっと新婚夫婦も同じだ。みんな同じなんだ。弟が結婚してから急に老けたみたいに、みんな向こう岸へと、遠くのオトナになってゆく。私を残して。
 
      私は誰なんだ。
 
 『なんか老けたんじゃない 弟のくせに』
 
      夢想家はどこまでも夢想家で、
 
 『そっちがいつまで経ってもコドモなんだよ』
 
      分かり合えるもうひとりの自分がほしい。
 
 小夜子は壁掛け時計を見上げた。喧騒の中、ひとりきりの孤独が広がる。茫然とした。指折り数えた瞬間が忍び寄ってきている。
 
      遥斗でさえ生き方が決まっているのに。
 
 呼吸が乱れないように息を止めてみる。足もとがぐらつくのはアルコールのせいだろうか。もう一本、ボトルの栓を抜く。
 
      私は、世間様を黙らせる大義名分を持ち合わせていない。
 
 最近になってあの絵ばかり眺めていた。ありったけの青を重ねて描いたあの絵。絵の中の主人公はどうなったんだろう。あの世界に閉じ込められてずっとブルーの世界に浸っているのだろうか。彼女は誰にも知られることなくしきりに呟いていたのに。問いかけていたのに。
 
      私は⋮⋮
 
 もうすぐだ。もうすぐなのだ。まだなんの準備も出来ていないのに。
 そのカウントダウンに気づいたのはあまつさえ、まったくもって相性の悪い、店長だった。ついでのように祝杯をあげられてしまう。真綾が既に気遣いの眼差しに変わっている。まだなのに。
 まだなのに
 
 心がきつい匂いを放ってくる。悪臭で眉間にしわを寄せる。だから小夜子はつい飲み過ぎてしまったのだ。
 
 
 
 人魚姫は配給会社が違えば、王子様とキスする時間が過ぎて人魚に戻ってしまっても王子様から海まで助けにきてくれるらしい。そしてまた人間になって王子様と幸せな結婚式を挙げるらしい。なんという御都合主義。元ネタだと失恋の末にあぶくになってしまうのに。そんなに願望を剥き出しにしないでくれ。せめて時間内にチュッとしてハッピーエンドならこっちもあっそうと済ませられるのに。
 そんなことをぶつぶつと垂れ流し、酔っ払い小夜子は千鳥足でバナナフロートと帰路につく。展示用のバナナボートで真綾と遊んでいたせいでそのまま隣の小さなバナナを引っぱり散歩に出てきてしまったのだった。
 
 「あーもう 何もかもめちゃくちゃだし
 
 
 
 つい飲みすぎてしまった小夜子。三味線とアコギが演奏を終えてつまみにサーターアンダギーに食らいついていた時のこと。夜は濃くなり新婚夫婦もいつの間にか消えていた。真綾がスマホをいじくっている。そろそろ帰りたい時の横顔だ。小夜子もバナナボートの上で放心していた。二枚貝に、ひとりになりたかった。
 
 そんな時だった。
 
 「だいたいなんであいつなんだかなあ」
 
 矢沢が持ってきたミミガーをしゃぶるのを取り上げて、店長がぼやいた。
 
 「なんの取り柄もねーじゃねーか、なあ」
 「靴つくれるらしいっすよ」
 「履けんのかよ」
 「靴なのに履けないんすか!?
 「履いてる奴見たことあるかよ」
 「あー、やばいっすね見たことないっす」
 「だろ」
 
 小夜子の鼻がひくついた。
 
 「取り入るのがうまいんだよなあ、あの童貞」
 「童貞なんすか!?
 「童貞だろ」
 「ウホッ、童貞」
 「アハッ、童貞」
 
 顎を突き出しノリを合わせて爆笑している。

 
 
 『人魚なら人魚らしくすればいいじゃないですか』

 
 
 「う     るせ     なあ          !!
 
 小夜子は立ち上がった。唇をふるわせて、声を荒げた。
 
 「童貞がタイプの女だっているんだよお          !!!
 
 うつむいていた顔を堂々としゃくりあげて目をひん剥いて。そのままバナナフロートを連れてドアの外へとゆっくり歩いていったのだ。蹴散らすようドタドタと音を立てながら。
 
 
 
 やばい。あの、気のふれた同僚を憐れむ目、は強烈にやばい。しかも絶叫する内容を完全に間違えた。まだ時計の針が日付変更ラインを越えてないのに勝手に(しかもついでに)他人の三十路を祝うなと⋮⋮小夜子はそう言いたかった。けれど、私は貝になりたいと思いながら火中のウニを拾ってしまった。
 
 しんと静まった店の空気が頭をよぎり戦慄する。今現在の状況を考えるとおそろしくて鳥肌が立つ。でも     情景を白目の奥へと引っ込めてしまえば半ば他人事の気がしてきた。後の祭り精神だ。
 
 「私は特別な人間で美人薄命で何かすごいレジェンドを成し遂げて二十七で惜しまれて死ぬ筈だったのに」
 
 ゴム風船が石につまずいて、遅い、と文句。蹴飛ばした。
 
 ふつふつと浮かぶ思考を爪を立てて弾けさせる。じれったさがまとわりついて堂々巡りから抜け出せない。一秒一秒を深く刻んで少しでも延命を図るのだ。無情にも時は流れて背中は押される。そうこうしているうちにただの散歩で残り時間は三十分になってしまった。
 
 「こんな時に限っていないんだよね」
 
 気がつくと靴屋で足を止めていた。
 
 「おーい!! バカ!! 逃げ隠れしてんじゃねーよ!!
 
 バナナがぺしりと壁にぶつかる。小夜子は軒下を練り歩く。
 
 「ん
 
 出窓にはまるであの絵のように何色かわからないブルーの靴が置いてあった。
 
 「私のじゃね
 
 履いてみようと踵に手をかけた時、ピクッと指の動きが止まる。何かが光った。首を伸ばすと、なんとあの自室にあるウニ殻オブジェとそっくりのブツがある。
 
 「盗んだのか、オイ
 
 目を凝らすと           あの個性的なかたちの貝殻。遥斗と一緒に拾ったヤツにすごく似てる。オブジェには付いてなかったのに。
 
 『泥棒みたいな人と仲良くして何がしたいんですか
 
 閃き、刹那、頭をよぎるのは、妄想。器用な手先で集めた貝殻からプレゼントを作ったのに、いざ渡すとなったら勇気が出ずに、浜辺の隅の岩陰で意中のシルエットを隠れ見ている。一世一代の覚悟でその子の座るすぐ隣にオブジェを置いてみるもまったくもって気付かれず、どうしようとしているうちにイケメンサーファーが華麗に自分の手柄にしてしまうの巻。いや、もしや     彼はただ親切に「あなたのですか」という感じで拾っただけなのかもしれない
 
 小夜子は首を左右に振った。まさか、そんな、そんなはずはない。その事実を言えずにまた同じ物を作って渡せずにいるなんて     もしかしてこの非常に私好みの靴も私のために⋮⋮ と、激しく妄想してはまた首を振る。まさかね。
 
 誰かの気配がして身を潜めた。地底から響く低い声が複数聞こえる。柵の向こうの目下、海沿いの一角に灯籠が輪を描き揺れている。瞬時、長老たち男衆だと理解した。そうだ、儀式はこれから未明に行われるのだ。全神経を集中させて耳を澄ました。
 
 「⋮⋮⋮⋮⋮⋮すごい⋮⋮⋮⋮鮫が⋮⋮⋮⋮」
 「もしや⋮⋮⋮⋮⋮⋮やはり⋮⋮
 
 うまく聞き取れないが、幾星霜の歴史の中でたまに事故が起きると昼間、おばちゃん達から聞いていた。離れ小島へ移動中に鮫にやられてしまうのだ。腕を一本失くしたとか亡くなってしまったとかで、その度にそんな儀式をする必要があるのかと女は言う。伝統を自分らの代で絶えさせるわけにはいかないと男は言う。らしい。
 
 「遥斗⋮⋮」
 
 ゾワッと全身が粟立つ。何かあったのではないか。遥斗はどう考えてもそういう時に逃げ遅れて第一被害者になる顔だ。末端まで冷たい血が走る、心臓が氷になって暴れだす。
 
      行かなきゃ。
 
      私が守らなきゃ。
 
 駆け出した。一目散に、海へと続く坂道を。何度目かに転びそうになってバナナに悪態を吐く。
 
 「相棒!! テメェ!! さっきからざけんじゃねーよ!!
 
 涙声でドスを効かせて叫びながら、自分自身へ叱咤する。なんでこんな運びづらいものを持ってきたのか。どうして爆笑しながら萎みかけのこいつに息をパンパンに吹き込んだのか。自分が悔しい。見捨てようか。だがしかし、いざという時必要だ。泳げないから。
 
 人魚のくせに、と風が囁いた気がした。
 
 海風にゴム風船が傾くから最高速度の半分しか出せていない。もうダメかも。間に合わないかもしれない。激しい息切れ。若い頃はもっと体が軽かった。せめて泳げさえすれば荷物を置いて全速力で走れるのに。どうして。どうして、私は泳げないんだ。
 
 
 『ねえママ。パパはおよいでかえってこなかったの
 『遠すぎたのよ』
 『フナノリならとおくてもちゃんとおよげないとダメだよ』
 
 小さい小夜子は泣いていた。母は困った顔をした。彼女が我慢する時にする、眉を下げて唇を噛む、あの微笑み。
 
 『そうね、でもパパは人魚みたいに遠くへは泳げなかったのよ』
 
 小夜子は心の水面を覗き込む。鏡写しの自分がいる。指先が波紋を描く。驚いた顔を見つめる。水面の向こう側に、写っているわけじゃなく、もうひとりの自分がいた。もうひとりの自分が水の中でもがいている。口からあぶくをこぼしながら、小夜子に伝えようとしている。
 
                              
 
 重ねて、重ねて、重ねて、重ねて、わからない。
 
      私は人魚になりたかった。
 
 表面張力のその先へ。
 
 
 (ううん、)
 (私は人魚なのに泳げない。)
 
 
 濡れた瞳が重力に逆らえずに心を吐露しようとして、
 
 「どうしたんですか そんなに急いで」
 
 完全に引っ込んでしまった。