第三章 勘違いトライアングル


 
 
 
 ふ、としてから、ふわあ、となる。
 
 「溜め息つくと幸せが逃げてくわよ」
 「逃げてく幸せがありません」
 「えっ、小夜子さんは幸せじゃないんですか
 「それにこれは息継ぎですよ。隣がうるさくて」
 
 コミュ障のくせに。靴屋の見習いは一ヶ月分の舌の筋肉を使う気らしい。今日は靴の日かなってくらい靴のマニアックな解説をしてくるし、食卓に海ブドウが運ばれたら「どうしてブドウなんですか」と海ブドウに語りかけてひとり奇人の晩餐会を開催している。幸い他の三つの椅子には器も懐も広くて深い人間が腰掛けているから事故が未然に防がれているけれど。
 
 「全然幸せじゃないよ」
 「どうして このグリルのお野菜美味しいじゃないですか。カルパッチョも。あ、魚は食べないんでしたね、もったいない」
 「もう! この酔っ払いを黙らせてください美里さん
 
 友利夫妻は小夜子だけでなく遥斗にも親しくしてくれる珍しい人種だった。
 
 「崇、どうする
 「とりあえずもっと飲ませようか」
 「何言ってるんですか
 
 美里は心臓が弱く子どもができない身体だと小夜子は母親から聞いた。こんな穏やかな夫婦の子どもになら今からでもなりたいと小夜子は思った。菜食主義の小夜子のために特別に肉なしのチャンプルーを用意してくれる(実家では肉をわざわざ避けて食べる)、慣れない人だとうまく喋れない遥斗をこんなに調子に乗せられる、人間上級者の嗜みだ。
 小夜子は強引に自分の二杯目と同じグレープフルーツジュースを遥斗の前に置いた。
 
 「ねえ小夜子ちゃん、それピアス
 「ノンホールピアスです。ピアスに見えるのに耳に穴を開けないで挟んで使うんですよ」
 「そんなのあるんだ。すごーく可愛い」
 
 もう女の子の格好ができる最後の年齢かもしれない。そう思い立って買ったウエーブ型のアクセサリーと幾何学模様が鱗っぽいワンピース。崖っぷちな心境で選んだ割にはコーディネートの仕上がりは高得点。ドヤ顔の小夜子が横を見ると、遥斗が首のストレッチを始めていた。目を逸らすな。
 
 「そうだ、遥斗くんどう思う 君んとこをうちの方までずっと行くと岩崖があるだろう その下の海岸で誰かがジュゴンを手懐けているらしい」
 「ジュゴン 見かけませんけど」
 「イルカかもしれないな」
 「それは奇妙ですね。サメならわかりますけど」
 「いや、サメのが明らかにありえないでしょ」
 
 そして崇は小夜子と遥斗に顔を近づけ声のトーンを落としてみせた。
 
 「人魚の仕業かなと思ってさ」
 「もう崇、怖がらせないでよ」
 
 美里が崇の頭をはたく。崇がこう演出するのも訳があった。この古城島には人魚を祀る小さな離島がある。海岸から距離にしてわずか、バナナボートでも行けそうな岩の隆起した不気味な陸地には高台から見下ろすと祠が見えた。けれどその鳥居の先を知っている者はほとんどいない。古くから数多くのタブーにがんじがらめにされていて、長老と選ばれし島の男数人のみがひっそりと儀式を執り行う。何がなされているのかは決して明かしてはならない。万が一、掟に背けば島民に災いが降りかかり、無断でその地に降り立てばその者は人魚の呪いに千年の時を苦しむ。そんな危なっかしい言い伝えがあった。
 
 「人魚がどうしてそんなことをするんですか」
 「もうすぐあの儀式があるだろう。災いが起こらないようにだよ」
 「起こらないように
 「人魚は魚を遣って島の周りを取り囲む」
 「ああ、ライフセーバーですね」
 「いやいや、人を近づけないようにね」
 
 せっかく崇が怪談の声真似までしてくれたのにこれである。
 
 「遥斗くんは面白いわよねえ」
 「個性的だよ、いい意味でね」
 
 小夜子はふと思い出した。島一番の高台に砂辺家の先祖代々の墓がある。父の葬式の時に小夜子はそこから祠を眺めたことがある。岩がぐるりと囲む小さな森、その前にある鈍色の積み木みたいな鳥居には白い折り紙のよう紙垂がぶら下がっている。それは綺麗で時を忘れて吸い寄せられそうになった。
 次の瞬間、知らないおじいさんが小夜子に「お父さんはきっと魚になって海に還ったんだよ」と囁いた。幼いながらに、魚を殺して食べていたから魚になってしまったのかとゾッとした。そのおそろしい秘密をやっと口に出せたのが十五の時。母は何食わぬ顔でこう告げた。「海で死ぬ男は魚になるけど女は海に獲られてしまったというのが古城島の葬儀での常套句なのよ」と。そしてこうも吐き捨てたのだ。「いくら古い血筋でも女は島の行事から蚊帳の外。そういうど田舎独特の男尊女卑って、ほんと嫌」と。母は島を去り、次の法事からはテコでも島には戻らず、よっぽどのことがなければ帰らないと宣言していた。だから引っ越しの便りを聞いて小夜子は心底仰天したのだった。
 
 「儀式ではどんなことをやるのかな」
 「崇さんは参加されないんですか」
 「一度も声がかからないなあ。移住してきた男はダメなのかな」
 「女の子にカウントされちゃってるのかもね」
 「おいおい」
 
 小夜子にはさっきから非常に気になることがある。自分と遥斗の食事の手がずっとシンクロしているのだ。箸を置くのと同時に箸を置かれ、グラスを傾ける角度も同じ。試しに四回、ひと口飲んでは口を離しとやってみたが、どれも完全にタイミングが一致していた 怖い。あまりにも怖すぎる。わざとでも無意識でも関係ない、やばい、しか出てこない。
 
 「魚や人魚にしか声がかからないのかもしれないですね」
 「独特の見解だね」
 「なら崇、あなた人間なんだから一生声なんてかからないわよ」
 「えー残念だー」
 
 小夜子は遥斗の奇怪な行動を分析しようとネットで情報収集していた。辿り着いたのは、脈アリ男子の行動を厳選した記事。あれもこれも。あいつもこれをチェックリストにして実践しているんじゃないかと疑うほど、遥斗は見出しのままの言動をしていた。同じ行動をする     これはミラーリングと呼ばれる現象で、好意を向けている人間と無意識に同じことをしてしまうというもの。逆手にとって意識的にミラーリングをする恋愛テクニックもあるらしい。
 
 小夜子が冷や汗を拭っていると崇が畳み掛けてきた。
 
 「そうそう、この前小夜子ちゃんのお母さんから面白エピソード聞いちゃった」
 「え、やだ、何聞いても信じないでくださいね。ロクなこと言わないんです」
 「昔ここらの浜で釣りしていた時の話だよ。お父さんが釣った魚をぜーんぶ逃したんだって
 「ああそれですか。父が生きてた頃には耳にタコができるほど恨み節言われました。あんな大漁だったのにって」
 
 弟が熱を出し母がつきっきりで小夜子は暇を持て余していた。だから駄々をこねて父の魚釣りについていき、結局すぐに飽きて近くの浜で砂遊びをしていた。バケツをぶら下げた父親が逆光に浮かび上がったのをぼんやりと覚えている。
 
 「幼心にお魚が可哀想って必死だったんですよ」
 
 父親が持ってきた重いバケツを、トイレに行く隙を狙って引きずって運ぶ小夜子。小さな身体のどこにそんな力があったのか。それは防波堤まで続き、慌てた父親がそのあとを辿ると、ちょうどその中身が海にぶちまけられているところだった。魚は一匹残らず大海原にリリースされてしまったのだ。小夜子はその後、父親と卸市場へ直行した。
 
 「ふふ、大災難ねえ」
 「小夜子ちゃんにはベジタリアンの素質がその頃からあったのかもしれないね」
 
 横から視線を感じ、小夜子が振り向く。
 
 「魚も美味しいですよ」
 
 またこいつは、とツッコむコンマ一秒前、とろけるように遥斗は笑った。ふにゃりとオノマトペが聞こえるほど口元を緩めながら、幸せそうに。こんな可愛い顔するんだ、と小夜子は静かに驚いた。呆れるくらい感情が溢れている。何がそんなに幸せなのか。眉間に皺を寄せるのも忘れてしまった。
 
 
 一度だけ、小夜子は遥斗に手を握られたことがある。自動販売機で炭酸水を手渡した時だ。普段ならほどほどの間合いを心得ているのに、計器が狂っちゃった感じでペットボトルを掴む手の甲を掴まれた。あ、すみませんと慌てて手を離すわけでもなく、握って、止まって、するすると肌を滑って物だけを受け取ったのだ。長い長い瞬間に、小夜子は茫然とそれを受け入れるのだった。
 
 間違えて握ったんだ、小夜子はそう思うことにした。遥斗は何も言わなかった。自分はずっと年上で、もうババアで、そんなはずは。そんな、図書館で同じ本を取ろうとして手が重なって、あ、と始まる少女漫画のラブロマンスをさりげなく演出されるはずがない。シャイすぎて、間違いを軽く謝罪し訂正することもできないんだ。なら私がババアなりに気にしてないよと教えてあげないと     東京の荒波に揉まれすぎた小夜子の自尊心は既にズタズタだったのだ。
 次の機会に小夜子はペットボトルの端の端をつまんで遥斗に差し出した。遥斗は無言でそれを反対の端の端でキャッチした。ああ、やっぱり気にしてたのね、小夜子は自分の思いやりに満足した。

 けれど。今でも思い出してしまう。なんだったんだ、あれは。
 もう答えを出したはずの怪奇現象に何度も推理を挑むのは、何故。
 
 

 「なんで女子禁制なんだろうね」
 
 もうすぐ秋なのに都会の真夏の夜風が吹く。小夜子と遥斗は並んで坂道を下る。
 
 「男の厚い友情ってやつですよ」
 「なあにそれ」
 「冗談です」
 「冗談がわかりづらすぎ」
 「別にどうでもいいじゃないですか。小夜子さんは気にしすぎですよ」
 「そうかな」
 
 腕がぶつかったと思ったら人ひとり分の空気を空ける。不安定なピンボケの距離感に、溜め息をひとつ。夜空を見上げると襲いかかってきそうな無数の星が乱暴に輝いている。
 
 「そういえば小夜子さんは人魚なのになんで泳げないんですか
 「ハ
 
 睨みつけると怒られ待ちの期待の顔、のすぐ先に、
 
 「アレェ こんなところで」
 「あ、」
 
 まさかの人物と再会する。
 
 「全然見かけないからどうしたのかと思っちゃったよ」
 
 サーフボードがないとただのチャラいチンピラに見える。明るい茶髪は子供っぽくて陽の当たらない小麦肌はおじさんみたい。全体的に理想と現実が分離している。なんでこんな奴に惑わされたのかもわからない。
 
 「ああそういうこと」
 
 含みのあるワードに、違いますと小夜子は叫ぼうとした。なのに妙な意地が喉につかえて出てこない。言いたいことが山ほどあるのに出てこない。
 
 「お似合いだね」
 「人魚です
 
 人魚ですの「に」あたりで気づいたが「似合ってるね」ではない。服の話だと思って(コーディネートのテーマは)人魚ですと答えてしまったが、そもそも言葉も足りなくて意味がわからない。命削っていいからこのシーンを取り消したいと全力で祈っていたら、
 
 「あはは、足がついてるじゃん」
 
 巧い切り返しだと頭では理解した。でも。その響きが決定的に小夜子を惨めにしたのだった。恥ずかしい。空回りして変なテンションでわけのわからないことを言ってしまう。頭が真っ白で、それを埋めようと口が先走り、言葉が次々と宙に浮く。
 噛み合わない会話に相手は上から下へと気を遣いながら体面を保ってくれていた。でも、それは完全に滑りまくっているのに気づかないふりをする居心地の悪さ。数分も続かずにふたりは今生の別れをした。コーキは小夜子に明日の便で発つと告げた。そうですか、と小夜子は小声で了解した。また会えたらいいですね、とは言えなかった。
 
 悪意がないのはわかっている。なのにどうしてこんなに馬鹿にされたと感じるんだろう。動悸に飲み込まれそう。大切にしていた願いをつまらないと嘲笑われた心地。自己の根源を否定された。それは八つ当たりの被害妄想なのに、こたえる。一番こたえるのは、こんなしょうもない姿を遥斗に見られてしまったこと。
 
 遥斗も私といる時はこんな惨めな気持ちなのだろうか。小夜子は唇を噛んだ。遥斗は透明な空気になって遠くの海を眺めていた。サーファーが手のひらサイズになってもまだ海に夢中。雰囲気がまるで立ち話に気づかない通行人Aだ。脇役だから空気を読めるはずがない。
 
 「小夜子さんって変ですよね」
 「⋮⋮ハ
 
 突如呟いたと思ったら、
 
 「泥棒みたいな人間と仲良くして何がしたいんですか
 
 やけに軽妙なタッチで、そのくせ感情の乏しい表情で、
 
 「人魚なら人魚らしくすればいいじゃないですか」
 「馬鹿にしてる
 「してませんけど」
 
 目だけは射抜くように不気味に輝く遥斗に呆気にとられてしまう。
 
 「人魚らしくすればってどういう意味
 「そのまんまですよ」
 
 ピシャリと海底からとどろく声。小夜子の心臓はやられた。確実に神経は一本死んだ。普通はスルーしつつやさしく接する場面じゃないかな。差し出がましいようですが。
 
 「私が人魚じゃないって言いたいんだ
 「そうは言ってないじゃないですか」
 
 感情の対流に押し流されそう。自分でもなんでそこまで人魚にこだわるのかわからない。いつの間にか譲れないこだわりが生まれていた。遥斗にはそれを大事にしてほしいと勝手に願っていた。ふたりきりの秘密なんだから、と。
 
 「逆に私が人魚じゃなかったらなんだっていうの
 「小夜子さんは小夜子さんでヒィッ」
 
 その時だった。野良猫がふたりの間を通り過ぎた。効果音をつけるなら“てくてく”だったが、遥斗は大の猫嫌い、身体をカチコチにしてリアクション芸人よろしく仰け反った。その隙をついて、小夜子は夜の坂道へと駆け出したのだった。遥斗を置いて。
 
 
 曲がり角で立ち止まる小夜子。後ろを追いかけてくる気配はなかった。大人気ないことをした。相手は年下、言語能力に乏しくて空気は読めない、しかもいざという時に格好悪い、そういうのはまるっと知ってて諦めていたはずなのに。なんで私は今泣きそうなんだろう。
 
 胸が鈍く痛い、氷の塊がつかえたみたい、生きた心地がしない、肺がうまく広がらない。どうしていいのかわからない。
 
      誰か私をどこかに連れてって。どこでもいいから。
 
 小夜子は人生何度目かの鬱期へと螺旋を描いて沈んでゆく。鎮魂歌のグラヴィティ。もうどこへも逃げる余力はない。心は冷たい氷海の中でオフィーリア、でも足はオートマティックに家路へと向かってしまうのだった。
 
      泣けたらいいのに。
 
 人魚姫の物語。人魚は自分の正体を知られたらあぶくになって消えてしまう。なのに小夜子はいつまで経ってもあぶくになる気配はない。
 
      あぶくになりたい。