けれど。今でも思い出してしまう。なんだったんだ、あれは。
もう答えを出したはずの怪奇現象に何度も推理を挑むのは、何故。
「なんで女子禁制なんだろうね」
もうすぐ秋なのに都会の真夏の夜風が吹く。小夜子と遥斗は並んで坂道を下る。
「男の厚い友情ってやつですよ」
「なあにそれ」
「冗談です」
「冗談がわかりづらすぎ」
「別にどうでもいいじゃないですか。小夜子さんは気にしすぎですよ」
「そうかな」
腕がぶつかったと思ったら人ひとり分の空気を空ける。不安定なピンボケの距離感に、溜め息をひとつ。夜空を見上げると襲いかかってきそうな無数の星が乱暴に輝いている。
「そういえば小夜子さんは人魚なのになんで泳げないんですか?」
「ハ?」
睨みつけると怒られ待ちの期待の顔、のすぐ先に、
「アレェ? こんなところで」
「あ、」
まさかの人物と再会する。
「全然見かけないからどうしたのかと思っちゃったよ」
サーフボードがないとただのチャラいチンピラに見える。明るい茶髪は子供っぽくて陽の当たらない小麦肌はおじさんみたい。全体的に理想と現実が分離している。なんでこんな奴に惑わされたのかもわからない。
「ああそういうこと」
含みのあるワードに、違いますと小夜子は叫ぼうとした。なのに妙な意地が喉につかえて出てこない。言いたいことが山ほどあるのに出てこない。
「お似合いだね」
「人魚です!」
人魚ですの「に」あたりで気づいたが「似合ってるね」ではない。服の話だと思って(コーディネートのテーマは)人魚ですと答えてしまったが、そもそも言葉も足りなくて意味がわからない。命削っていいからこのシーンを取り消したいと全力で祈っていたら、
「あはは、足がついてるじゃん」
巧い切り返しだと頭では理解した。でも。その響きが決定的に小夜子を惨めにしたのだった。恥ずかしい。空回りして変なテンションでわけのわからないことを言ってしまう。頭が真っ白で、それを埋めようと口が先走り、言葉が次々と宙に浮く。
噛み合わない会話に相手は上から下へと気を遣いながら体面を保ってくれていた。でも、それは完全に滑りまくっているのに気づかないふりをする居心地の悪さ。数分も続かずにふたりは今生の別れをした。コーキは小夜子に明日の便で発つと告げた。そうですか、と小夜子は小声で了解した。また会えたらいいですね、とは言えなかった。
悪意がないのはわかっている。なのにどうしてこんなに馬鹿にされたと感じるんだろう。動悸に飲み込まれそう。大切にしていた願いをつまらないと嘲笑われた心地。自己の根源を否定された。それは八つ当たりの被害妄想なのに、こたえる。一番こたえるのは、こんなしょうもない姿を遥斗に見られてしまったこと。
遥斗も私といる時はこんな惨めな気持ちなのだろうか。小夜子は唇を噛んだ。遥斗は透明な空気になって遠くの海を眺めていた。サーファーが手のひらサイズになってもまだ海に夢中。雰囲気がまるで立ち話に気づかない通行人Aだ。脇役だから空気を読めるはずがない。
「小夜子さんって変ですよね」
「⋮⋮ハ?」
突如呟いたと思ったら、
「泥棒みたいな人間と仲良くして何がしたいんですか?」
やけに軽妙なタッチで、そのくせ感情の乏しい表情で、
「人魚なら人魚らしくすればいいじゃないですか」
「馬鹿にしてる?」
「してませんけど」
目だけは射抜くように不気味に輝く遥斗に呆気にとられてしまう。
「人魚らしくすればってどういう意味?」
「そのまんまですよ」
ピシャリと海底からとどろく声。小夜子の心臓はやられた。確実に神経は一本死んだ。普通はスルーしつつやさしく接する場面じゃないかな。差し出がましいようですが。
「私が人魚じゃないって言いたいんだ?」
「そうは言ってないじゃないですか」
感情の対流に押し流されそう。自分でもなんでそこまで人魚にこだわるのかわからない。いつの間にか譲れないこだわりが生まれていた。遥斗にはそれを大事にしてほしいと勝手に願っていた。ふたりきりの秘密なんだから、と。
「逆に私が人魚じゃなかったらなんだっていうの?」
「小夜子さんは小夜子さんでヒィッ」
その時だった。野良猫がふたりの間を通り過ぎた。効果音をつけるなら“てくてく”だったが、遥斗は大の猫嫌い、身体をカチコチにしてリアクション芸人よろしく仰け反った。その隙をついて、小夜子は夜の坂道へと駆け出したのだった。遥斗を置いて。
曲がり角で立ち止まる小夜子。後ろを追いかけてくる気配はなかった。大人気ないことをした。相手は年下、言語能力に乏しくて空気は読めない、しかもいざという時に格好悪い、そういうのはまるっと知ってて諦めていたはずなのに。なんで私は今泣きそうなんだろう。
胸が鈍く痛い、氷の塊がつかえたみたい、生きた心地がしない、肺がうまく広がらない。どうしていいのかわからない。
誰か私をどこかに連れてって。どこでもいいから。
小夜子は人生何度目かの鬱期へと螺旋を描いて沈んでゆく。鎮魂歌のグラヴィティ。もうどこへも逃げる余力はない。心は冷たい氷海の中でオフィーリア、でも足はオートマティックに家路へと向かってしまうのだった。
泣けたらいいのに。
人魚姫の物語。人魚は自分の正体を知られたらあぶくになって消えてしまう。なのに小夜子はいつまで経ってもあぶくになる気配はない。
あぶくになりたい。 →