第二章 虹色の一礼


 
 
 まさか、家族から傷口に笑顔で塩を塗られるなんて。どう生きようが半年後には正式に“おばさん”にさせられてしまう。なんてことだ。それを心からスマイルできるくらいには今から精神を鍛錬しなければならない。
 
 まずは風呂でお清めをする。岩塩入りの入浴剤。心身共にデトックスして小夜子は心がピュアになる努力をしていた。海藻入りマーメイドのフェイスパック。浮き草になって目を閉じて、沸き起こるポエムに身を委ねる。
 
 おやすみ前のコップの水は道化の涙     
 
 「小夜おお⋮⋮」
 
 実家暮らしは自分の時間がままならない。
 
 「おどろおどろしい声で呼ばないでよ。なに」
 「またあの子があんたに用があるみたいでさっきから張り込んでるのお」
 「ク⋮⋮ッソ、すぐ出るから放置で
 「よろしく 頼みます
 
 最近母親からの苦情が増えた気がする。これはいよいよ自分からも不審者本人に苦情を言わなきゃならない事態かもしれない。せめてチャイムくらい鳴らしてくれと。
 もったいなくて泣きたいがパックを即洗い流して身体だけ乾かしてから門前へとやってきた。玄関では母親が「ずっとあの子こっちを見ていて怖い」と顔を覆っていた。
 
 「おかげさまで今風呂上がりなんですけど なに!?
 「っっ」
 
 耳まで真っ赤になって目を逸らしている。でも本人は恥ずかしがっているのがバレていないと思うのか、力技でなんでもない風を装うのだ。
 
 「実は伝言を預かり通りかかって」
 「チャイム鳴らしていいよ」
 「へ
 「いや、用があるならピンポーンって玄関ベル鳴らしていいからね」
 
 何それって顔をするのでマジかよって顔で返して表札の下のボタンを教えると、ああこれね、なんて冗談っぽい顔をされる。どこまでがマジでどこまでが冗談なのか謎に包まれて迷宮入り。ふたりの間ではよくあることだ。この感覚の違いは歳の差なのかなと最初のうちは申し訳なく思っていたが、今となってはあっちに相当問題がある、と小夜子は確信している。
 
 「じゃ、用があるんで押しますね、ピンポーン」
 「今押さないでよ 母親ビビっちゃうから」
 「押しちゃった、アハ」
 
 もう と腕へ肘でツッコむと子供みたいな照れ笑い。こういう仕草が、童貞かよ、と小夜子をキュンと癒して脱力させるのだった。小夜子は変態なのだ。
 
 
 遥斗と出会う少し前、小夜子がバイトの面接を今の勤め先の店長としている時だった。店長に「一応観光地だからさ、ちゃんとコミュ力は必要だよね。ほら、おどおどしてなんにもできない奴とかいんじゃん。ああいうのマジでダメだと思うのよ。挙動不審は他から見ればマナー違反だから。そう思わん」と言われて小夜子は適当に相槌を打ってしまった。後になってそれが遥斗への陰口だと気がついた。変わっている、暗い、仕事ができない、それは単なる上辺の印象でしかない、と小夜子は思う。実際、彼女を介して遥斗が認知されていくともう誰も、少なくとも小夜子の前ではそんな嫌味は言わなくなった。それでも小夜子の胸の中にカッと正義の火が燃え盛ったのは確か。
 
 自分の弟がこんな風に社会から扱われたらどうだろう。あんなに塩っぽくても例え毎日ムカついていたとしても、自分の大切な弟だ。学校で弟がいじめられようものなら悪霊が憑依したかの如く睨みつけ、陽の当たる道を歩く時は背後に気をつけろよ、なんて凄みをきかせてやったものだ。人生ピーク時は目の前でいじめなんてあったら許すはずもなかった。
 
      仕事ができないって思うなら助けてあげりゃいいじゃん。
 
 数々のバイト先でのお局の意地悪が走馬灯となりめくるめく。
 
      私がフォローしてその子を立派にして見返してやらないと。
 
 マジでムカつく、下克上だぞ、まだ見ぬコミュ障。そう内心で誓い、けれど、そうするだけ。完全アウェイの戦場で何ができるだろう。密かに報復の狼煙を上げるしかない自分にもムカつく。大人になればなるほど自分らしく自分を表現できなくなるのは何故だろう。
 
 「それで、友利夫妻から夕飯に誘われたんでお伝えにきました」
 「そうなんだ。私だけ
 「僕もです。嫌ですか」
 「嫌なんて言ってないじゃん。一緒行こうよ。いつ
 
 嬉しそうに明日の十八時ですと言い残して、用があるからと足速に元来た道を辿っていった。遥斗はいつもそう。懐いたと思ったら無愛想になったりとコロコロ揺らぐ。何考えてるのか理解不能。なのに肝心の感情が溢れて隠しきれていないからややこしい。
 
 「じゃ、明日の十七時半にここでね
 
 大声で背中に呼びかけると遥斗は振り返って遠慮がちに手を挙げた。未完成のバイバイ。応答する。私と一緒にディナーに招待されてそんなに嬉しいか、と小夜子は半ば得意げに門を閉めた。
 
 「ふうん」
 「なに」
 「別に」
 
 微妙な顔で出迎えられてイーッと歯を剥き出しにする。覗き見が気持ち悪いという癖に自分がこうだからしょうがない。
 
 
 遥斗に出会った日はやさしい風が吹いていた。雨上がりの鮮やかなピンクと橙の空に微かに虹がかかっていた。足を止めて海に乗っかる夕焼け空を見上げていると、視界の端のドアから誰かが顔を出した。それは靴屋『イチカ』で、エプロンをした遥斗だった。
 
 目が合って「こんにちは」と声をかけるとこの世の終わりのように衝撃的な顔をして黙り込んだから、ああやっぱり噂の彼かとなったのだ。小夜子は返されるべき挨拶を待った。待って、待って、虹は消えた。ものすごく嫌われたのかなと訝しい感情がふつふつなり始めた刹那、驚いたことに遥斗は勢いよく深々と頭を下げた。
 
 虹色の一礼。焼けた黄金色の雲の狭間、春の光が彼を照らす。白い首筋に張りついた汗粒が波間のように煌めいていた。確かに彼は変わっていた。でも誠実だった。頭を上げた表情からそれはすくい取らずとも感じられた。泣きそうな顔をして小夜子の気持ちに呼応した彼に、小夜子は久しぶりに満ち足りた自分自身を感じ、心を心肺蘇生させたのだった。 
 真心に、真心が、鏡合わせで近づいてくる。

 それから遥斗は小夜子によく話しかけるようになった。ビギナーズラックとも呼べそうな無敵の熱量で不器用な言葉を紡ぐ遥斗。食い込み気味なコミュニケーションにこの人大丈夫かなと最初は引いてしまう小夜子だったが、孤独な心をあたためられて徐々に距離を少なくした。
 
 「どこのチームが好きですか」
 
 顔を合わせたあと去り際に、今日の晩御飯は何ですかって感じで聞いてくる。
 
 「チーム
 「球団です」
 「キューダン
 「そりゃ野球のですよ」
 
 よく見てみると素振り(すぶり)のような素振り(そぶり)をしている(座布団一枚)。
 
 「私知らない野球」
 
 えっそれでも人間ですか、なんてチグハグな会話に、お前がな、と内心思った。そしてもうひと言、ま、私人魚だからな、とも付け加えた。ふと沸き起こった断定形に自分で自分にサプライズする小夜子。その頃の小夜子は髪もボサボサ、眼鏡にノーメイクで外出するくらいには四方八方やる気を無くしていた。けれど「もしも自分が人魚なら」なんて本気で考え始めたのもこの季節。無意識に人魚を追いかけていたのは自分の生い立ちがそうだからなんじゃない      夜な夜な想いを巡らせていたら、それは幼い頃に思い描いていた夢だった。
 
 小夜子は彼を知るほどに自分を見つけていく心地がした。遥斗は野球をテレビ観戦するのが趣味。小夜子はお菓子ならラングドシャが好き。遥斗はイジュがたくさん咲いている場所を知っている。小夜子は眠れない夜はそのまま起きて朝焼けのなか高校時代好きだった音楽を聴く。
 
 遥斗は見積もった年齢よりも高く小夜子より四つだけ下らしい(七つは下だと思っていた)。変にしつこい遥斗にさすがに気に入られてると気がついて、歳下の男の子に憧れられるなら綺麗なお姉さんになりたいなと小夜子は思った。それはなかなか認めがたく騙し騙し感じ取った感情だと言ってもいい。おそるおそる、小夜子は変身していった。くたびれた長い髪へ久々にトリートメントをしてみる。ムダ毛処理をして観賞用だった白いコットンのAラインのワンピースを着るようになる。使い古したメガネがぽっきり折れたのをきっかけに(言い訳に)小夜子は埃をかぶったコンタクトレンズの箱を引っ張り出した。
 
 ああ、それくらいの季節だった。一週間くらい姿を見ないなと思ったら、その後、遥斗が筋金入りの気分屋に変貌していたのは。小夜子の前で黙りこくることが増えた。今となっては饒舌なのは激レアになる。何十分の一の確率。
 
 「本当に意味わかんない」
 
 最近はいつもはじめましてを繰り返しているみたいで。自分だけには心を開いてくれているのかもと得意げになっていたのに。ぶっきらぼうにされると小夜子は小さく傷ついた。避けられているんじゃと本気で悩んでしまった丑三つ時。
 
 『髪の毛いい感じじゃないですか』
 『そういう服も着るんですね。似合ってますよ』
 
 脳内で反芻する。遥斗は小夜子への採点が甘く、よく褒めてくれた。
 
 『⋮⋮⋮⋮』
 
 ただ眼鏡を外した時だけは、きょとんと小夜子を見つめただけで何も言ってこなかった。あの店長ですら手放しで褒めてくれたのに。顔を背けて通り過ぎ気づかないふりをされた。なんでだろう。
 
 そして小夜子は遥斗という謎の生物にああでもないこうでもないと考察を続け、寝返りをうち続けてついに悟ったのだ。レット・イット・ビー。あるがままに。へんてこな弟を抱える姉の境地で生あたたかく見守ろう。
 
 
 まだ外は星屑のカーテンを開けようとしない。都会よりも澄んだ濃い群青の天蓋。その薄いヴェールの生地にはたくさん穴が空いていて、天国か何かから届くのだろう光が透けている。深遠なる宇宙の瞬きに小夜子の胸にはうっとりとポエムの花が咲き始めた。音もなく、密やかに。何万光年も先からやってくる輝きはちらちらとか細かった。枕横の電気スタンドを点ける。本棚から一冊の手帳を取り出して照明にかざすと文字がくっきりと浮かび上がった。

 
   水槽の人魚 世界から遮断された結晶に取り残されて 

 音もなくページをめくる。

 
   水槽の水と同じ温度で感じなかった 濡れているのがわからなかった 鱗の涙

 
 いつ書いたのかも思い出せない。思い出せないほどの遥か昔なんだ。こうして暗がりでひっそりと気を抜くと、太陽の下の喧騒で相殺していた悲しみの目が開く。
 
      私は幸せになれないんだ。
 
 もう知ってる、囁きかけてきたもうひとりの自分にそう言い放ち、小夜子はこう付け加えた。
 
      人魚だから。