それから遥斗は小夜子によく話しかけるようになった。ビギナーズラックとも呼べそうな無敵の熱量で不器用な言葉を紡ぐ遥斗。食い込み気味なコミュニケーションにこの人大丈夫かなと最初は引いてしまう小夜子だったが、孤独な心をあたためられて徐々に距離を少なくした。
「どこのチームが好きですか」
顔を合わせたあと去り際に、今日の晩御飯は何ですかって感じで聞いてくる。
「チーム?」
「球団です」
「キューダン?」
「そりゃ野球のですよ」
よく見てみると素振り(すぶり)のような素振り(そぶり)をしている(座布団一枚)。
「私知らない野球」
えっそれでも人間ですか、なんてチグハグな会話に、お前がな、と内心思った。そしてもうひと言、ま、私人魚だからな、とも付け加えた。ふと沸き起こった断定形に自分で自分にサプライズする小夜子。その頃の小夜子は髪もボサボサ、眼鏡にノーメイクで外出するくらいには四方八方やる気を無くしていた。けれど「もしも自分が人魚なら」なんて本気で考え始めたのもこの季節。無意識に人魚を追いかけていたのは自分の生い立ちがそうだからなんじゃない? 夜な夜な想いを巡らせていたら、それは幼い頃に思い描いていた夢だった。
小夜子は彼を知るほどに自分を見つけていく心地がした。遥斗は野球をテレビ観戦するのが趣味。小夜子はお菓子ならラングドシャが好き。遥斗はイジュがたくさん咲いている場所を知っている。小夜子は眠れない夜はそのまま起きて朝焼けのなか高校時代好きだった音楽を聴く。
遥斗は見積もった年齢よりも高く小夜子より四つだけ下らしい(七つは下だと思っていた)。変にしつこい遥斗にさすがに気に入られてると気がついて、歳下の男の子に憧れられるなら綺麗なお姉さんになりたいなと小夜子は思った。それはなかなか認めがたく騙し騙し感じ取った感情だと言ってもいい。おそるおそる、小夜子は変身していった。くたびれた長い髪へ久々にトリートメントをしてみる。ムダ毛処理をして観賞用だった白いコットンのAラインのワンピースを着るようになる。使い古したメガネがぽっきり折れたのをきっかけに(言い訳に)小夜子は埃をかぶったコンタクトレンズの箱を引っ張り出した。
ああ、それくらいの季節だった。一週間くらい姿を見ないなと思ったら、その後、遥斗が筋金入りの気分屋に変貌していたのは。小夜子の前で黙りこくることが増えた。今となっては饒舌なのは激レアになる。何十分の一の確率。
「本当に意味わかんない」
最近はいつもはじめましてを繰り返しているみたいで。自分だけには心を開いてくれているのかもと得意げになっていたのに。ぶっきらぼうにされると小夜子は小さく傷ついた。避けられているんじゃと本気で悩んでしまった丑三つ時。
『髪の毛いい感じじゃないですか』
『そういう服も着るんですね。似合ってますよ』
脳内で反芻する。遥斗は小夜子への採点が甘く、よく褒めてくれた。
『⋮⋮⋮⋮』
ただ眼鏡を外した時だけは、きょとんと小夜子を見つめただけで何も言ってこなかった。あの店長ですら手放しで褒めてくれたのに。顔を背けて通り過ぎ気づかないふりをされた。なんでだろう。
そして小夜子は遥斗という謎の生物にああでもないこうでもないと考察を続け、寝返りをうち続けてついに悟ったのだ。レット・イット・ビー。あるがままに。へんてこな弟を抱える姉の境地で生あたたかく見守ろう。
まだ外は星屑のカーテンを開けようとしない。都会よりも澄んだ濃い群青の天蓋。その薄いヴェールの生地にはたくさん穴が空いていて、天国か何かから届くのだろう光が透けている。深遠なる宇宙の瞬きに小夜子の胸にはうっとりとポエムの花が咲き始めた。音もなく、密やかに。何万光年も先からやってくる輝きはちらちらとか細かった。枕横の電気スタンドを点ける。本棚から一冊の手帳を取り出して照明にかざすと文字がくっきりと浮かび上がった。
水槽の人魚 世界から遮断された結晶に取り残されて
音もなくページをめくる。
水槽の水と同じ温度で感じなかった 濡れているのがわからなかった 鱗の涙
いつ書いたのかも思い出せない。思い出せないほどの遥か昔なんだ。こうして暗がりでひっそりと気を抜くと、太陽の下の喧騒で相殺していた悲しみの目が開く。
私は幸せになれないんだ。
もう知ってる、囁きかけてきたもうひとりの自分にそう言い放ち、小夜子はこう付け加えた。
人魚だから。 →