第一章 靴に恋はしない人魚


 
 
 心音に合わせたゆるいビート。暇な仕事なんて地獄だと思っていたけれど島時間に慣れたせいか、欠伸が出るくらいでちょうどいい。店長はハンモックで寝ている。小夜子は同僚の真綾と一緒にサーフィンボードを片付けつつサーフロックを聞いている。
 
 「今日はうるさい人たちがいなくてちょうどいいですね」
 「いつもこれくらいがいいね」
 「こんな悪趣味な柄、誰が買うんですか」
 「私に聞かれても」
 「小夜子さん買ってくださいよ」
 「嫌だよなんで私が」
 
 小夜子はサーフショップに息を潜めていた。真綾は小夜子より五つ下の先輩、本人曰く勢いでゴールインした既婚者で現在、サーファーの旦那とスローライフを送っている。ここに来る八割はそんな感じだ。
 
 「見て見て小夜子さん。この写真立て可愛過ぎません
 「いいね。足跡ついてる。あれ、これどっちも左足じゃない
 「ほんとですね」
 
 小夜子と真綾はサーフィンには興味ないが併設された雑貨売り場は割と本気で取り組んでいた。
 
 「昨日、あのカクレクマノミのオルゴール、売れたんですよ」
 
 真綾の趣味のアクセサリー集めがきっかけの、両腕を広げたほどのコーナー。主に真綾が入荷を担当しているが最近は小夜子も役割が増えてきた。先週は初めて発注したヒトデのオーナメントが売れて、顔が火照ったのを思い出す。細い流木に小ぶりのヒトデの雨が揺れる、小夜子のお気に入りだった。
 
 「ところであのお客さんとのデートはどうだったんです
 
 そう、顔が火照ったのはヒトデが売れたからじゃない。
 
 「デートじゃないよ、ただのランチ」
 「にぶい。気があるから誘ったんですよ」
 「そうかなあ、うーん」
 
 なあんてとぼけながらも小夜子は割と本気だったのだ。客層の例に漏れずこんがり日焼けした筋肉質の、サカナ顔。名前はコーキ、漢字は知らない。レゲエが好きで東南アジア旅行の武勇伝が鉄板ネタ。浜辺のレストランに一度誘われて得た情報はこれくらい。チャラそうだけど実は誠実そうだなと小夜子はそう評している。
 
 「でもそしたら渡具知さんが泣いちゃう」
 「ハ!? 遥斗とはそんなんじゃないって全然
 「お似合いなのに」
 「マジでやめてよ
 
 何故か踊り出す真綾。馬鹿にされているのだろうか。指先で茶化してくる。
 恋愛経験値は時に年齢をも凌駕する。異性の話になると途端、真綾は年上の従姉妹のような振る舞いになって、小夜子は甘ったるいジレンマを奥歯で噛み締めるのだ。
 
 「いらっしゃいませ⋮⋮アレ
 
 奥歯をギリギリ鳴らしている最中、入口のウインドベルが鳴ったのに、人影もない。
 
 「ふふ、もしかして渡具知さんじゃないですか
 「いや、ありえそうでシャレにならないから」
 
 途端、小夜子はツンと胸が痛くなってしまう。遥斗はいい人間だ。行動が極めて怪しいだけで根は真面目でとてもやさしい。時には感心してしまうほどのタフさだってある。贔屓目かもしれないが、よく目を凝らせば、かっこいい。だけど誰も目を凝らして見ようとはしない。
 
 そして密かにこうも思うのだ。どうしてあんなに自分に懐いてくるんだろう、と。
 ある時は急に顔を近づけられて「僕の目充血してますか」。ある時は側を通ると貧乏ゆすりが激しくなった。ある時は不自然に下の名前を呼ばれた。「小夜子⋮⋮小夜子、ってどんな漢字を書くんですか」     その響きは妙に力んで抵抗摩擦がかかった感じ。意識しているんだと感じた。 
 ああなんなんだ。そういうことをされてしまうとこっちも仕返しをしてしまう。わざと横切る時に側へ寄ったり、ちょっとした時に背中に触れたり。別にからかっているわけじゃない。ただ気になってしまう。こっちが自意識過剰なんだろうか。あっちが緊張して可笑しな行動をしちゃう度に沸き起こるあのくつくつとした感情。説明できないし証明もできないけれど確かに感じるあの違和感⋮⋮
 そんな時、小夜子は歯がゆさに襲われる。疑いを弁明する速度で。

 魚心あれば水心。少しだけ認めよう。
 ある可能性をほのかに期待しているのかもしれない。
 そして残るのは奇妙な罪悪感。私なんかのことを何を間違ったのか過大評価しちゃって。年上だぜ。ババアだぜ。馬鹿だな。頭大丈夫かな⋮⋮もったいないな     それを口に出す代わりに、小夜子は週に一度と頻度を決めてバイト帰りに寄り道をする。
 
 「おおう、砂辺のお嬢さん、いらっしゃい」
 
 高台へと続く雑草混じりの田舎道の途中、小夜子の母親が生まれる前から看板を立てている靴屋がある。その看板の周りを箒で掃いているのはオーナー、仁。半世紀は靴革をなめしている年季の入った職人だ。その筋張った肩越しの窓奥には真剣な眼差しの、遥斗の横顔。
 
 「今リペアしとるよ、呼ぶかい」
 「ううん、いいです」
 
 寡黙に作業する凛々しさ。電熱ヒーターでコテを熱して蝋をつけて、底面を擦り磨き上げている。腕まくりして浮かぶ腕の血管が男らしい。意外と細部は男らしいのだ。数時間前に他人の玄関前でおどおどしていた変人と同一人物とは信じられない。贔屓目を重々承知で申し上げるが、うっとりする。
 
 靴に囲まれた木製の作業台の上にはオタマジャクシ型のトンカチやら小夜子には想像もつかない工具がぐちゃっとひしめき合っていた。遥斗はそのひとつを手に取り先端を熱している。
 
 「いい腕だよ。あっという間に覚えちまう」
 
 しゃがれ声が誇らしげに鼓膜に響いた。
 
 
 ある春の夜、小夜子が秘密を打ち明けたあの日、缶ビール片手に海辺を歩いていると遥斗が浅瀬に膝まで浸かり海を見ていた。小夜子はしばらくその背中を眺めていた。そして彼の振り返りざまに目が合って、手を振って、砂浜に腰を下ろしてふたりきり話をした。話題に困ると一緒に砂をほじくって貝殻を探した。両手いっぱいになるほど集めた頃には言葉があふれて止まらなくなった。その時の遥斗は彼には珍しく饒舌で(彼はムラがありたまにそういう日があるのだ)仕事の話をしてくれた。それまで仁と同じ苗字なので孫かと思っていたがどうやらそうではないらしい。経緯は聞けなかったが、この島に来てから流れ着いた靴屋でずっと働いているとのこと。だから成り行きなのかと思い「やりたい事が他に見つかればやめていいんじゃない」と年上風を吹かせてアドバイスしてみたつもりが     
 
 『僕は骨を埋める気持ちです』
 
 天気予報のように淡々と、遥斗は呟いた。
 その言葉は時間差で小夜子のみぞおちをじわじわと締め上げた。翌朝になって、その素朴さが、重たさが、眩しくて朦朧としたのだった。生き方に一本の筋が通っている。シンプルに、情熱的に、終わりまで。ふらふらと夢もどきの波に酔いながらここに打ち上がった自分とは全く違う。どうなるか人生が不安でいっぱいで喉元まできりきりに、東京に残れば良かったかな、なんて袋小路の迷い道をぐるぐる回っていた自分が恥ずかしくなってしまうくらい。小夜子は素直に、うらやましいと、そう思った。
 
 靴をつくる     それを一生の生業にするのはどんな気持ちなんだろう。
 
 二十代前半、小夜子は人魚が靴に恋するファンタジー映画のシナリオを書いていた。数あるプロットのうちその物語だけ結末がわからない。行き詰まり、近所のレンタルビデオ屋に足を運んだり図書館で調べたりした。その中で知ったこと、日本での人魚伝説はリュウグウノツカイという巨大魚が元になっている場合が多いらしい。亜種でアマビエというくちばしに三本足がついた半人半魚の妖怪がいる。聖徳太子は人魚に会ったことがあるらしい。でも⋮⋮靴については何ひとつ調べなかった。 
 その書きかけのスクリプトは今でもベッドの下で寝息も立てずに眠っている。
 
 「わああ、いつから居たんですか
 
 立ち上がった勢いで作業中の靴を天井まで豪快に飛ばしている遥斗。師匠に怒られて耳まで真っ赤になっちゃって、そんな姿を直視するのはいたたまれない。手放しで褒められない残念さが滲むのは、彼の絶妙なチャームポイントでもあるんだけれど。
 

 タイミングが悪いにもほどがあると思う。他人の幸せというものは及第点の人生と平常心があってこそ、心から喜べるもの。
 家に帰ると弟夫婦がやってきていた。母親が唐揚げという名のおそろしい死肉を山盛りに揚げていた。何かあるなとは思ったが、とてもじゃないけど今はかまえない。存在を殺して自分の臓物へと帰還する直前、背後から足音が近づいてきた。階段を一段飛ばしでのぼっても音速には敵うはずもなく、
 
 「これからオメデタ会見やるんだけど出席マストだかんね」
 
 勘のいい奴に足止めを食らう。
 
 「今超具合悪いからもう少ししたら行くわ」
 「あっそう」
 
 この弟ときたら。自分の嫁には過保護だけど姉に対してはすこぶるしょっぱい。靴職人見習いの方がよっぽど大事にしてくれる。
 
 小夜子はベッドに突っ伏しながら一点を見つめていた。貝殻のオブジェ。ウニの殻を屋根にして淡い中間色を積み上げたメルヘンチックな宮殿が台座の上に可愛らしくそびえ立つ。椅子やテーブルまでどれも驚くほど精密で、珊瑚と貝殻、砂浜に転がっていたであろう自然物で仕上がっていた。ミニチュアになってそこに住むことを何度妄想しただろう。それは初対面のコーキからのプレゼントだった。
 
 休日に夕日を見に浜辺に向かうと、彼はサーフボード片手に駐車場へと歩いていた。すれ違いざま、眩しいなあと、ただ思った。人生を何の遠慮もなく謳歌している。アイスを買いに外に出たのに財布を忘れてしまったのが悔しくてひとりぼっちで夕日を眺めている自分とは大違い。
 いよいよ太陽が水平線にかかる時、小夜子に爽やかな風が吹く。隣を見るとさっきのサーファーが白い歯を見せて笑っていた。暇つぶしかなと他愛ない話をしていたら唐突に、彼はそれを差し出した。ずっとあなたに渡したかったと伝えるように。ロマンティックなワンシーンだった。自分にそぐわない間借りしたような刹那的輝き。あとで映画の本当の主人公から請求書が届きそうなほど。
 
 まさか本当に請求書が届くことになるなんて。もちろん比喩である。正確には、靴底を天井にぶっ放していた靴屋からの下り坂、小夜子はコーキを見つけた。サーフィン仲間とたむろしていた。気づいてほしいけど、知らない集団には近づきづらく、木陰に隠れた。結果的には動物的勘で躊躇して大惨事を防げたのだ。輪の真ん中で電話を切ったコーキにひとりのサーファーが放った言葉。
 
 『妻子持ちは大変だよな』
 
 頭上からタライが落下するコントじゃないかという衝撃。とても静かな、世界の終わり。右から左へ流れていくのは彼は妻子持ちで有給を利用して恒例のメンバーとバカンス中だということ。もうそろそろ本州に帰ってサラリーマン生活に戻るということ。そう、愛する妻子のために。小夜子の内側に芽生えそうだったものは生まれる前に死んだのだ。
 
 手を伸ばすとサラサラした貝殻の感触。このオブジェがなければ、これさえなければ、何も期待なんてしなかった。地元民じゃないサーファーなんて素性が知れない。観光地に住んでいるんだからそれくらいの心構えはあったのに。
 
 けれどこれは、と小夜子はいわく付きのウニを睨みつける。とてもじゃないけれどカジュアルに「君に似合っているね」なんて渡せるものだろうか。しかも自分の好みとドンピシャ。これで運命を感じても自意識過剰の罪になるのか。瞳の表面張力は世界を歪ませる。小夜子へ変に素直な自己分析をさせる。
 
 輝いているコーキと出会って、もしかしてと期待して、思いついてしまったのだ。自分の人生が落第点なのは恋愛を二の次にしていたからかもしれない、と。ひとりで生きていくよりも、誰かを大事にして大事にされて、その先に本当の自分の人生があるんじゃないか     結婚すれば今よりずっと楽なんじゃないか     そうだ、そのラインさえクリアしておけば島中どこにいても勝手に肩身が狭くなる自分を変えることができるかもしれない。いや待てよ、島から出られてどこか遠い場所で幸せに暮らせるじゃないか。小夜子はそんな安寧の未来に憧れを持たずにはいられなかった。
 
      やっと幸せになれると思ったのに。
 
 他人を利用する罪悪感はもはやなかった。コーキという自他共に合格点に達している相手といれば現状を打破して更に自分の価値まで上げられる。自分で自分を幸せにできなかったから人様の力を借りよう、他力本願ファストハッピー。追い詰められているという情状酌量を加味しても袋叩きの刑は免れないとして、でも、これだけは言わせていただきたい。
 
 始まりはほんの出来心だった。現実逃避のイフを妄想しただけだった。それがいつの間にか膨らんで大きくなり過ぎて、弱っていた小夜子を飲み込んでしまったのだ。どんなに強い気持ちを持っていても人は時に、容赦ない現実の小さな波の重なりに溺れて、自分らしさから迷子になる季節を過ごす。
 
      この歳相手に思わせぶりなことするのは酷すぎる。
 
そう、酷すぎる。小夜子の話が真実ならば。